北タイ横断紀行                  

1998年11月20日〜29日

This is a journal of traveling Nan,Chiangmai,Phayao province. I took flight from Bangkok to Nan.My friend Pam invited to attend ceremony of her promotion at her home in supurbs of Nan city and travel to DoiPhuKha national park,enjoy harvesting rice. Take bus to Chiangmai and join tour of Doi Inthanon and hill tribe trekking with senior friend from Japan. I visited family of my friend Ann in Phayao city and lectured 'Thailand and Japan' at primary school where her father is director.Finally, backed from Phayao to Don muang airport by bus.
 




Nan airport

 

 

11月20日(金)

 バンコクに入り、国内線でナンまで行き、空港でホテルリストを見て、街の真ん中にある4階建てのデーワラジ・ホテルを選ぶ。トゥクトゥクを使って行き、チェックイン。ファンの部屋で350バーツ払う。パムに電話しておく。
 シャワーを浴びて一杯飲んだら、直ぐ寝てしまう。


morning market


Pam's relatives welcome by classic jeep

no lesson at Yap's school on saturday.

flower at school

drive to DoiPhuKha national park,

chomphu phuka tree

dook phuka

at TonChomphuPhuka view point

salt well

sell 15kg 100baht

buy broom,vegetable

palm trees
11月21日(土) ナン、ドイ・プ・カ−国立公園、チェン・クラン

 5時半に部屋の鍵を預けて出る。通りでは若い僧侶3人が一列になって托鉢していた。店の親父が鉢にご飯を入れてしゃがむ。すると若僧が、お経を唱えだした。敬虔な空気が漂う。 向かい側の料理店で朝食をとる。ご飯に、ゆで卵と付け合わせ料理をとり、お茶を飲んで20バ−ツだった。朝市では魚を捌いて売っていた。チェックアウトを済ませる。
6時を過ぎると外も明るくなり、燕群団
もどこかへ飛んで行ってしまう。 パム夫妻の車は30分遅れでやってきた。助手席にヤップ叔母さんが乗っていて挨拶する。小学校の先生らしい風貌だった。ジョブ叔父さんの家まで行く。ナンの北側にあり、ここでジ−プに乗り換える。35年前のもので、メ−タ−は全て壊れているが、ちゃんと動く。途中、ガソリンを入れていく。1リットル、10バ−ツ。ガソリン代は全て負担することにした。
 北部のタォワンカ−町迄42キロ、国道1080号線を突っ走る。途中、ラオス領事館や高速道路監視所を通る。陸稲、みかん園や桑畑が続き、ナン川に沿いながら、坂を登っていく。
 7時40分、2番目に若い叔父夫婦の家につく。ノイ叔母さんと夫のツンさんと挨拶。ここで朝食となる。テラス風の屋根の下、大きなチーク材のテーブルを前にして座る。薄桃色の糯米は山岳地帯で採れたものだ。豚や魚の干物に野菜の和え物。スープには豆と穀類が入っていて、お粥の一種で健康食。
  食後、部屋に飾ってある自慢の置物やチ−ク彫刻を見せていただく。 
 8時40分、マツダ製ピックアップ車の荷物台にゴザを敷いて、ノイ叔母さんも乗っていく。途中、市場に寄ってミカンやカオラム(竹筒にモチ米とココナッツジュ−スを入れて蒸したもの)を買っていく。 
 車からは煙草や稲の畑が見え、稲の刈り入
れをやっていた。 30分後、プァ村を通過。車は山に入って行く。竹林、ススキ、陸稲が続き、日本の田舎に似ている。山々は焼畑になっていた。モン族が住んでいるところで、山を焼けるのは山岳民族にだけ許可されている。 一山越えて降りるとメオ族の村になった。トオモロコシの実を袋詰めして、車に乗せている。家畜の飼料にしている。 やがてジョブが管轄する学校につく。
 土曜なので学校は休み。子ども達が校庭で遊んでいた。校舎の脇の家に女性教師が住み込んでいる。教室に入ると、寄付による教科書が積んであり、壁一面に教材として野菜、魚や動物の絵と名前を描いたポスタ−が貼ってある。私が興味津々と眺めているので、ジョブがいう。
「いつでも、こうした所に案内しますよ」
「定年過ぎれば時間がたっぷりとれるので、その時には是非お願いします」
「じゃあ、一週間位かけて案内します」
 定年後が楽しみ。 再び山岳地帯に入り、途中、王立森林保護事務所に寄ってトイレタイムをとる。 
 10時半、ドイ・プ・カ−国立公園事務所に着く。きれいに整地され、展望台もある。係員のお兄さんが、酒をすすめるので飲んでみる。一杯10バ−ツ。タイ酒にハ−ブを漬けたもので、殆どアルコ−ル。しかし口あたりは良かった。モンキ−バナナをいただく。
「これは生徒達が持ってきたもの」 
 11時前、ラン・ドゥ・ダオに着く。星空がきれいな所として知られており、大仏様が岩壁の中間に立って眺めておられる。周りにはヤシの原生林が生えている。更に奥に行ってチョンプ−プ−カ−の大樹にめぐり会う。高さ20mはある。この地域にしかない木で、2月になると肉厚の白地に桃色の縁取りをした花の房を咲かせる。
 車は舗装した道を登っていく。タイ語で書かれた標識には1684mと書いてある。道路では最も高い所だ。その後もくねくねとした道を走り、ボ−・クレアウア村につく。ここは塩生産で有名。地下水を井戸からくみ取り、大鍋で煮沸、塊になったものを更に駕籠に吊るして水分をとっていた。他の家でも塩水を貰って、同じやり方で塩にし、袋に詰める。それを道路脇に板の台を置いて一袋4.5キロで6袋100バ−ツで売っていた。
 パムが500バ−ツ紙幣を渡すと、見たことがないのか偽物と疑っているのか、受け取ろうとしない。100バ−ツ紙幣で買う。ヤップは箒を買い、ノイは野菜を買っていく。野菜一束1バ−ツ、日本より2桁安い。巨大なカボチャを65バ−ツで売っていた。荷台に買い物を置いて出発。今度は舗装していない道を走る。この辺は10年前、共産党が立てこもった所で、国境にも近い。

communist escape area 10years ago
 ティン族の住む村を通り、ナン川の源流地帯を越える。
  1時過ぎ、クンナムナン村。水田が多い。更に奥地に向かって走る。
  2時前、車が止まる。国境警備所の下にベンチと丸太の椅子があり、昼食にする。ノイ家で用意したオカズにモチ米とみかんを食べる。

with security officer near border line

 食事中、犬が寄ってくる。鶏の群れが近くの草原で遊んでいた。2人の山岳民族の男が、長い鉄砲を持って歩いてきた。鳥撃ちに使うという。

with gun men hitting bird
  帰りは、北上して行く。ずっと舗装されていたが、既に雑草や蔦が道路に張り出してきていた。この道は利用者は少ないが、国防道路として位置づけているのだろう。 高所を走っているせいか、スピ−ドのせいか、進行方向を見ていると目に涙がたまってくる。しばらく仰向けになっていたら、寝てしまった。
 5時過ぎ、チェン・クラ−ンの町に入る。ナン迄70キロ。ここにはジョブの事務所があり、トイレタイムをとる。その後、市場に行ってミカンや野菜を買う。ここでは500バ−ツ紙幣は通用した。
「タ−・ワン・プ−」レストランに入る。ジョブがノイの息子トイ君を呼びに行く。その間に料理を注文、椎茸と海老の炒めものとトウフ入りタイシャブと魚の揚げ物を食べる。
 トイ君がやってきた。受験勉強で忙しいようだが、運動もやっているようで、タイボクシングで手の甲を切っていた。

with Noi's son Toy at TahwanPhyu restaurant
 他に、茹で鰻がでてくる。日本人が生の魚を食べるのが不思議のようだ。
「魚には寄生虫がいるでしょう」
「海の魚だし、ワサビをつけて消毒します」 
  料理は600バ−ツ。さりげなく払っておいたが、7人しっかり食べたのに、安い。
外は雨だった。帰りはバイパスを通ったりしながら走る。
 9時、ホテル。明日に備えて休む。

 


Nan river

with teacher Yap

long boat race in fall

field

join to harvest rice

street of nan

offering for ritual

preparation for party

step to Wat PrathatChaeHeng

Wat PrathatChaeHeng

Pam and Suut

pray to Stupa

view from temple

11月22日(日) タドンチャイ村、稲刈り、昇格祝い儀式、プラタートチェーヘーン寺、プーミン寺

 7時に起きる。外はまだ雨が降っていた。 朝食は、パム推薦の店にする。かなり混んでいて2階にまで客が入っていた。 
 8時半、ジョブが車で迎えにきた。今度は乗用車。車は国道101号線を南下して行く。チョンプ−プ−カ−の花の形に似ている黄色の花を咲かせた街路樹が続く。名前はドック・ケ−。ジョブがタイ語で話しかける。
「昨日、ここで事故があって家族4人死にました」
 そこには、2本の旗が立てかけてあった。 ここはプラ−に行く幹線道路で、昨日のように雨が降っていると、スリップして事故がおきやすい。 20分程して左折し、ナン川を渡る。隣に10年前迄使われていた吊り橋が残っていた。ヤップ先生が、ここで秋に行われるボートレースの写真を私にあげながら言う。
「600年前からの行事で、雨季が終わりオーク・パンサー(雨安居あけ)になって僧侶に食事を寄進する行事と共に行われます」
 長いボートの先は竜の形をしていて花輪を吊っていた。
 パムの家はタドンチャイ(川の側)村にあり、リン・ファン・ナン小学校の近くにあった。パムは、儀式の準備で忙しそうだった。昨日一緒だったヤップ叔母さんは、隣の家で祖父母と一緒に住んでいた。早速、小学校を案内してくれる。雨も殆ど止んでいた。
 生徒は102人、先生は14人。ヤップ先生の担当クラスには男子6人、女子5人。校庭を挟んで教室と事務室が建っている。コンピュ−タ−教室や科学実験室、語学ラボが並んでいた。他の教室には窓がない。日曜日なので閑散としているが、校庭では子ども達が遊びに来ていた。曜日によってタクロー、バレーボール、サッカーを授業に取り入れている。事務所の他に食堂もあった。
 
 ヤップ先生の育てている花が事務所の前で咲いていた。体育と英語の先生がやってきたので一緒に写真を撮る。 雨が再び降ってきたので、家に戻る。学校と道を隔てた所に新しい家が建っていた。生徒寮だという。寮費は月800バ−ツ。 家に戻るとパム夫妻が待っていた。近くにあるパム家の畑にいく。広大な稲畑では、30人以上が2つに分かれて既に刈り入れをしていた。雨よけに麦藁帽子を被り、一団に混じって稲刈りを手伝う。
 まずパムに通訳してもらいながら、指導を受ける。地上2、30センチを刈り取る。日本より高い。左手で稲の束を掴み、右手で鎌で刈り取っていき、3束位つかんだら、斜め後ろに伏せていく。束をつかむのに左足で持ち上げていたが、なかなか上手くいかない。横3列刈り取ると前に進む。雨もやんだ。いつの間にか稲で左指関節を少し切っていた。バンドエイドを巻いていたら、ゴム手袋を貸してくれる。隣りの人とペースを合わせる。畦まで辿りつき一息ついたところで、水と雨の補給があった。汗まみれになった顔をタオルで拭く。水の方は自前のものを飲む。
 最初の緊張感もとれ、足腰の動きもしっかりして手付きも慣れてきた。 2列終えたところで、引き上げる。皆は8時から12時までやって、昼食そして昼寝してから残りの畑を刈り取っていく。ここ1週間で刈り終えるという。お邪魔したことをタイ語で挨拶したが、地主のお嬢様と、そのお客さんのせいでもないようで、ニコニコと微笑み返してくれた。
 11時、今度は儀式が執り行われる家に向かう。パムと夫ス−トの昇格お礼の儀式で、村の長老が住む木々に囲まれた家だった。既に豚1頭が殺され、7人がかりで生肉を叩いたり、お供え用と皆で食べる料理を作っていた。 お供えは、お盆の上にバナナの葉と料理をのせ、タレとお皿を添える。それを庭に設けられた板張りの高床式祠に、お酒と花と一緒に置いてから参拝する。
 今度は、本家の奥の部屋に入って祈祷を待つ。年配の祈祷師がやってきて、呪文を唱え両手を伸ばして竹棒を掴む。右手の指2本で押さえたところを見てお告げが判る。 同席の古老が時々話しかけていたが、どうやらチャオルアン(主霊)からのお告げが顕れないようで祈祷師が交代する。
 滞りなく終わり、パム夫妻と寺巡りをする。まずプラタート・チェーヘーン寺。車を停めて階段を登っていくと高さ55mある仏塔が見えた。夫妻がやるのを真似て参拝する。ここから畑の先にナンの街が見える。建物に入ってみると、涅槃仏が横になっている。ここではショールをかけていた。

 街に戻り、プーミン寺に入る。1596年に創立しているが、現在の建物は19世紀末に改築された十字型のものだった。

Wat Phumin
 当時、チャオアナンタボラが統治しており、大きな壁画には釈迦の前世物語や当時の生活振りが描かれていた。


murals on the wall
 最後にパム達がお世話になっている寺に行き、参拝。住職と歓談する。

 日曜日、近所の人達の溜まり場だった。

saloon on sunday
 ここにはハリプンチャイ王国のチャーマテーウィ女王が祀られていた。

 2人にホテルまで送ってもらい、夕食を簡単に済ませて寝る。




Mr&Mrs.Job see me off at bus station.

with couple to ChiangKhong by bus

Uang who speaks English works at
MBK in Bangkok
11月23日(月) ナン→チェンマイ

 6時、目を覚ます。腰と右肩に疲れが残っていた。
 7時前、ジョブ夫妻が車で迎えに来て、ランルゥロットで朝食をとる。ジョブ夫人の実家はメ−ホンソンで、彼女も社会科の先生をしていた。 2人はバス乗り場迄送ってくれる。チェンマイ迄318キロあり、料金は114バ−ツ。
 前から2番目の窓側に席を確保、荷物は既に下の格納庫には入れられず、網棚に押し込む。 ホテル、チェックアウトの時、一緒だった夫婦も運転席の後ろに乗っていた。男は迷彩服を着ていて、香港映画に出てくるフトッチョの俳優に似ている。
 7時50分。運転手が席に座り、エンジンがかかる。国道1091号線を走り、ナン県新事務所を通過。
しばらくすると人家もなくなり、バナナとオ−ク、竹の林が続く。 バスは山道を登り、尾根伝いに走る。太陽が、まだら雲に隠れているので凌ぎやすい。山崚で3人乗ってきた。車掌が一袋10バ−ツの唐辛子を買って戻ってくる。日本の山道は山里と谷を巡るが、タイは山岳に住む村を巡るので尾根を巡る。山崚をあえぎながら登る。無事登りきってよ、と心で後押しする。
 9時、舗装工事中の道に入り、スピ−ドが落ちる。脇にはミツビシ、コマツ、カト、ヒタチの工事用車が置いてあった。坂を降りてナワイ村に入る。手前に警察派出所があった。ここは盆地になっていて、稲刈りも行われていた。降りた男を待っていた女性が、バイクの後ろに乗って小道を走り去り、バイクで送りにきた母親が、娘をバスに乗せて帰っていく。
 再び山岳地帯を登っていく。ロ−ギアのままで原始林の山をぬっていく。
 9時40分、チェン・ムアン。しばらくしてバスの駐車場に入り、10分間のトイレタイム。迷彩服男からミントの差し入れを受ける。代わりに飴を差し出す。再び走りだし、野を越え、丘を越え、山を越え、橋を渡って行く。 
 10時20分、警官が乗り込んで荷物と人物をチェックする。他の警官が格納庫を厳しく調べている。一般車も尋問を受けていた。次の村はポン。かなり乗り降りする。綿畑が多くなってきた。ミヤン族が、この辺に住んでいるようだ。村を過ぎ、スピ−ドをあげたところで、男が木陰から手をあげていた。 バスはスピ−ドを落として停まり、バックして客と荷物を乗せて出発する。3分かかった。
 12時、パヤオに着く。ここで殆どの人が降りてしまう。何時に出るのか聞くと、「午後1時」という。バンミ−ナムを食べ、トイレに行く。それから窓口で28日のバンコク行きキップを買っておく。パヤオから387バ−ツで座席指定、はじめ4Aと書いていたので、運転席の後ろ1Dに変えてもらう。 迷彩服兄さんのカップルがベンチに座っていたので話しかける。
「どこまで行くんですか」
「チェン・コ−ン」
 乗り継ぎ待ちだ。 乗り遅れないようにバスに乗り、彼らが座っていた席でメモをとっていたら、お兄さんがやってきて、「チェンマイ迄時間がかかるから」と言って、飲み物とバナナ菓子を差し出す。 お礼に写真を撮って送ることにする。住所を聞くと、バンコクだった。人は見かけによらないし、都会人にも親切な人がいる。
 1時、出発。まず、26日の夜に訪ねるアンの家を捜しておく。バスはアジアロ−ドを走っており、スピ−ドを出しているので、アンが書いてくれた地図の目安をあっという間に過ぎ去ってしまう。
 乗客は約30人。運転手は日差しを避けるため、窓の前をミッキ−マウスの日除けで覆ってしまい、前が見えなくなってしまった。隣に座った若い女性ウアンが英語で話しかけてきた。
「日本人ですか」
「ええ。あなたはどこから」
「バンコクから実家に帰るところで、姉が結婚してランパンにいるので、途中寄ってきたところ」
「学生ですか」
「今年、卒業しました」
「どこの学校」
「チェンマイの北にあるメ−ソ−農業大学」
「卒業証書は誰からもらうの」
「大体、国王の末娘だけど。他の王室の人が来ることもあるわ」
「どこで働いているの」
「バンコクのマ−ブンクロンセンタ−5階の家具売り場。バンコクに来た時、寄って下さい」
「じゃあ、そうしよう。どういう店なの」
「ミ−デ−という会社のショ−ル−ム。本社はロスで、タイで家具を作っているの」「休みは」
「毎週、月曜だけ。英語を勉強する時間が余りないの。どうやったらいいかしら」
「まず仕事の内容を英語で説明できるようにして、使ってみることだよ」
 迷彩服兄さんからいただいたバナナの日干しを一緒に食べる。 バスは山道に入り、ドック・ケ−の黄色い花が続く。道はくねくね、身体も左右、上下に揺れる。
 2時5分、ワン・ヌアの町を通過。 15分後、検札官が乗り込み切符にチェックマ−クをつけていく。
 2時半、ウアンが降りていく。 5分後、バスタ−ミナルに入り、10分のトイレタイムをとってから、再び山登り。低速道をガ−ガ−、アヘアヘ、ウ−ウ−しながら登っていく。国道118号線は4車線になっていた。 3時、今度は一気に降り、遅れを取り戻すかのように突っ走る。
 3時40分、チェンマイのア−ケ−ドバスセンタ−に着く。降りると、例のごとくタクシ−運転手がまといつく。我関せずに切符売り場に行き、パヤオ行きのバスの時間を確かめておく。
ソンテオが来ていたので、ナイト・バザ−ルに行くことを確認し、値段を聞くと20バ−ツという。普通5バ−ツなのに。メ−ピン川を渡り、左折したところで降りた女性が5バ−ツ払っていた。すかさず運転手に「ナイトバザ−ルなら10バ−ツ」といっておく。そして当然の如く払って降りる。
 4時過ぎ、グリ−ンロッジにつく。カウンタ−にいたサンに声をかけると「Kが来ている」と教えてくれる。Kさんの隣の部屋が空いていたので別々にとる。 201号室のKさんに連絡し、荷物を置いてから訪ねる。Kさんは、前日にバンコクに入り、今朝飛行機でついていた。一杯引っかけてから、明日からのツア−を決めるため出かける。ついでに、ほつれた絹製ジャケットを持っていく。タ−ペ−道路沿いの中国人の洋服店に入り、ジャケットの修理を頼む。夕方迄にできあがるという。
 この界隈にはインタ−ネットカフェ−とイタリア料理店が増えていた。白人も多い。 いろいろな旅行代理店のツア−内容と値段をチェックしながら、かって利用した旅行代理店パンダ−ツア−の店を捜す。つぶれたのかと思っていたら、タ−ペ−門の近くに移転していた。見覚えのあるノイがいた。 いろいろ検討した結果、明日はドイ・インタノンの日帰りツア−、翌日は一泊の山岳民族ツア−にする。料金は他のツア−より安かった。 タ−ペ−門では、プミポン国王誕生祝いの壇が準備されていた。帰りに洋服店に寄ってみると、既に仕上がっていた。150バ−ツ払う。
 夕食の場所を捜したが、結局ナイトバザ−ルのオ−プンレストランにする。食券を買って、ビ−ルに餃子、炒めご飯、焼きそばと盛り合わせ果物で1人130バ−ツ。 ナイト・バザ−ル付近は、以前よりあか抜けした店が多くなっていた。アカ族の衣装を着た女性達が民芸品を売っている。 帰りにコンビニショップに入る。Kさんは切手を買い、絵はがきを送ってもらう。 ここの女主人はチュラロンコン大出身で、主人はチェンマイ大学の薬学部出身。薬屋からコンビニにしている。息子は琉球大学に留学中で、宇井純ゼミに所属して環境学を勉強している。「家には札幌からの女学生を預かっている」といって「白い恋人」チョコレ−トを出してくる。ロッジに戻って休む。

at travel agent office

DoiInthanon summit area

King Bhumibol Adulyadej memorial
brown color for Tuesday.

standing buddha for tuesday inside

Queen Sirikit memorial

peak of DoiInthanon the highest
mountain in Thailand

remains of King Intavijayanout

Indian style tomb

Visitor center displays nature of national
park.

girl sells bouquet

check dried fruits

11月24日(火) ドイ・インタノン、カレン村

 7時40分、いきつけのソバ屋で朝食をとる。ここのは麺が太く、大きなボ−ルに入って30バ−ツ。通りには外人観光の大型バスが次々と走り去っていく。バンコクからの夜行で着いたようだ。 Kさん、バンコクの空港で買ったアジア大会マ−クのついた帽子をかぶっている。 食後、ロッジに戻ってフィルムの現像を出しにいこうとしたら、ロビ−で名前を呼ばれる。予定より15分も早かった。 リムジンバスの真ん中の座席に座る。ガイドはヨ−ン。前の席には、ニュ−ジャ−ジ−からの夫婦が乗っていた。その後、豪華なホテルに行き、ニュ−ルンベルグからの夫婦が乗りこむ。車は空港の近くを通り、チョム・トン迄国道108号を1時間走る。
 9時丁度、小学校の前を通ると、校庭に生徒が全員揃って朝礼をやっていた。葬式用のお棺を運んでいる車を追い越す。ヨ−ンの父親が65歳で亡くなった時、骨を焼き、メ−ピン川で弾薬を爆発させて霧散させ、天国に送ったという。散骨の一種だ。 チョム・トンで右折し、山頂に向かう。関所を通って原始林の中を登って行く。高度があがると松林が多くなってきた。
 10時、左手に水田が広がっていた。プア・ト−ン(ひまわり)の花も咲いている。
 2回目の関所を通り、ドイ・インタノンにたどりつく。この道は、空軍が環境保護団体の反対を押し切って1970年に完成している。土砂崩れを防ぐやりかたも、壁一面にコンクリ−ト塗りにしてしまい、景観を壊していた。それでも現在400種以上の鳥がこの国立公園に生息している。狩猟や石を持ち出すと5年の懲役、花を持っていくと1ヵ月の懲役といった罰則も効いているようだ。
 10時半、プミポン国王夫妻の記念堂を見学する。亡くなられるとここに安置されることになっている。外の空気は冷え込んでおり、カ−ディガンをはおる。国王還暦記念として1987年に建てられた塔は誕生曜日、火曜の色、茶色で外装されており、尖塔は蓮の形をしていた。堂内の中央には、両手を胸に置いた白い立像の火曜仏様が安置され、人造の蓮で飾られていた。堂の外壁にはラ−マヤ−ナの物語が彫られていた。 次に王妃の塔に行く。1992年に建設、国王の塔が60mの高さだが、こちらは55mに抑えてある。金曜日生まれの色の塔の中には金曜仏像が鎮座。壁には女王の足跡を描いている。FAOの役員をしていたり、高僧との接見の他、世界各地を訪問しており、ニュ−ヨ−ク、インド、ロンドン、ロ−マ、日本等の景色が彫られていた。 敷地には、タイ人向けだろうか、葉牡丹や紫陽花を咲かせていた。
 車に乗って、頂上に行く。階段を登っていくと、チェンマイ王朝8代目インタヴィチャヤノン王の遺体が安置されていた。王様はここの山をアンカ・ルアンと命名していたが、彼の死後、彼の名前からドイ(山)インタノンと呼ばれるようになっている。白い墓は、黄色の蘭や百合、薔薇の花で飾られており、石段にも参拝者の花が置かれている。 墓の後ろに四角い石があり、高度2563mと彫ってある。タイで最も高い所。隣にチ−ク材で出来たインド式霊堂が建ち、象の石像が置いてあった。
 山を降りる前、ビジタ−センタ−に寄っていく。ここでは国立公園の自然を紹介していた。壁にかかったクイズの扉を開けるとジョ−クにみちた答えが出てきた。
「最も騒がしい音は」「ソンテオ」
「最も危険な動物は」答は鏡、つまり扉を開けた人のことで、つい苦笑いしてしまう。
「最も安全な動物は」「へび」
「最も静かな鳥は」「殺害された鳥」
「最も醜いものは」「放置されたゴミ」
 外に出たところで、鳥が木の中から飛び去っていった。
 12時、出発。一気に降りていくので耳が詰まる。キャンプ場で昼食となる。車から出るとチビッコ軍団が花売りに殺到してきたが、ヨ−ンの一言で引き下がる。 スティロ−ル製の弁当箱が配られる。パンとチキン、ミカンとバナナに菓子パンが入っていた。カンビ−ルを飲みながら食べる。 チビッコ達は近くで男と女に分かれて盛んに議論していた。どうやら食事が終わるまで休戦のようだ。Kさんの推察通り、食後一斉に1束10バ−ツの花を突き出して来る。同行のカップルが犠牲者になっていた。
 次に無農薬野菜と花の栽培園で停まる。ここは10年前までケシ畑だった。 丁度1時の鐘が鳴り、池の周りでうろついていた作業員が職場に戻って行く。ここでは花の他、蜂蜜や椎茸、ハ−ブを栽培して、それを缶ジュ−スにして販売している。 近くでモン族の人達が民芸品を販売していた。電気代は月50バ−ツで済むように援助されていた。衣類や干し果物を売っている店で試食する。
 1時半、カレン族の村を訪ねる。花飾り作りや料理の仕度をしていた。

making floral decoration at white Karen village

cooking
 ここは白カレン族で、機織りと脱穀と民芸品作りを主な仕事としている。織物は黒糸が基調で、肩かけ袋やスカ−フを作っている。1日織っても10バ−ツにしかならない。

weaving
 近くのソプハット学校では、ラッチャニ−コ−ン派遣教師が子供たちを教えていた。9時から午後3時まで授業。ここの村は93人、生徒は9人で、土日は衛星テレビによる成人教育をやっている。

at Sophhat school
 2時半、車に乗って戻り、第一関門を通過しメ−・クラン滝前で降りる。ここには40分滞在する。 この辺は硬い岩層で、幾つかの滝が出来ていた。ワンルアン滝からパカンナ滝そしてメ−クラン滝にたどりつく。

MaeClang waterfall
 岩盤に水が流れ落ちて、なかなかの景観をつくっている。

 水溜まり場で子どもたちが遊んでいた。水につかってみたが、滑りやすいのでやめる。滝の上にあるビジタ−センタ−に行ってみたが、見るべきものはないので車に戻る。ツア−はこれでお終いかと思っていたら、チョム・トン寺に案内される。真鍮メッキで金色に光った仏塔は、15世紀ランナ−朝のもの、白い仏塔はビルマ様式。 本堂はチ−ク材で出来ている。514年前に建立。スリランカからお釈迦様の骨の一部を奉納してあるという。他にメンライ王が使っていた金製の食器や仏像、481年前の王様の寝室も保存されていた。 壁には国王の他、ロ−マ法王が訪れている写真が貼ってあった。
 5時半、ロッジに戻り、シャワーを浴びる。夕食はチェンインプラザの地下にあるタイスキ・レストラン。ビールを飲みながら、肉、イカ、海老、魚、野菜をスープに入れて食べる。最後にソバと卵雑炊を食べて満腹になる。1人280バーツだった。
 


at MaeTaeng market

Doi ChiangDao

Lahu village

with lahu woman

tools to live

mountains and fields

class room at school


guide gave cigarette to resident

11月25日(水) トレッキング、ラフ族、カレン族

 目を覚まし、外を見ると、久し振りの快晴だった。
 8時にチェックアウトを済ませ、荷物を預けて朝食に出かける。食後、パヤオのアン家に電話してみたが、誰も出てこない。
 9時前にリムジンバスが我々をパンダツア−の本社に連れていく。旧市内の事務所内には、他のツア−客が来ていた。パスポ−ト代わりに免許証を提出、申請書にパスポ−ト番号、国籍、年齢を記入する。 申請表を見ると、アメリカ、スェ−デンからで、20代後半が多かった。女性が9人、男性3人。壁には7人のガイドの写真が貼ってある。代表者ノイは10年の経験があり、我々のガイド、ポンを紹介される。
 9時40分、出発。ソンテオスタイルの幌付きピックアップ車に乗って、途中ガソリンを満タンにし、ツ−リスト警察所に申請書を提出していく。 チェンライにいく4車線の国道に出ると、100キロ以上のスピ−ドで突っ走る。
 10時40分、メ−・タンに着く。脇道に入った駐車場にとまり、30分休憩。その間に運転手とガイドは食料を買い込み、朝食を済ませていた。他のトレッカ−達も到着、トイレに行ったり、市場を散策していた。 休憩後、車は更に北上、メ−・ピン象キャンプ場を通過すると、道も2車線になり、山中に入っていく。
 11時40分、高原に出ると左手にど−んと雄大な山がそびえ立っていた。チェンダオ山、標高1766m。8合目あたりに雲をつけていた。やがてプラ方面に右折、高原を登り降りしていく。
 12時20分、ラフ族の村に着く。ここで車は帰っていく。日差しが強く、家は戸を閉ざしていた。我々が歩いているのを、中から誰かがじっと見ている気配がする。外に白布をつけた竹竿を立てていた。何かのお呪いだろう。ここの生計はトウモロコシと炭のようで、いずれも袋詰めにしてあった。 ひとまわりしてポンのいる小屋に戻ると、昼食が用意されていた。彼は中部タイのチャイアプン出身で28歳。この秋から3ヶ月、お客に招待されてベルギ−の田舎に住んでいて、5日前に帰ってきたという。ラフのオバサンと片言のタイ語を話す。
 1時15分、プンが先頭、Kさんを真ん中にして歩き出す。プンは久し振りのガイドのせいか、出だしの道を間違えてしまう。すぐに気がつき、目安となるゴムの木が見える畑の間をぬって行く。 畑では雑草に混じって陸稲の他、ピ−ナッツ、大豆を栽培していた。大きなバッタを見つけた。つかんでみたら、後ろ足のトゲを使って抵抗してくる。 蝶が舞い、蛇が這っていた。Kさんから蝶のことをタイ語で霊(ピ−)服(ス−ァ)と教えてくれる。確かに霊を宿した羽根のようだ。この辺の蛇は暗緑色で小さい。林の中を歩いていると鳥網があった。細糸で粗く網にしている。林の中は涼しいが、藪蚊がいて、じっとしていられない。この辺には15年前迄、猿が多かったという。 プンが小道に倒れた竹を屶でバッサリ切り通りやすくしてくれる。3匹の牛を連れたオッサンに会うと煙草を恵んでいた。 やがてパ−・ライ山の麓に出る。名前のように崖(パ−)で切り立っている。

PaaRai(Mt.Cliff) 
 3時、カレン族の村に入って休む。山から引いた水を土管に入れて貯水していた。焚き火した後に、80%ヘロインのアンフェタミンを吸っていた形跡がアルミホイルに残っていた。次の村への道を歩いていると小学校があり、寄ってみる。数人が勉強していたが、我々を見るとやめて集まる。アカ族の子どもで、腕輪を売りつけてくる。かなりの間、同行していたが、いつの間にか帰ってしまう。
 4時半、パロン村についた。村の下の宿泊所に荷物を置いて散歩する。今はトゥアダム(黒豆)の収穫期で、村人は袋をかついだり、リアカ−で運んでいた。今日は散歩程度に終わり、身体をもてあましていたので、坂の上の家までリアカ−を運んであげる。家々では食事の支度をしているのか、煙が屋根と壁から洩れていた。

Palon village where we stay
 夕食迄、2人でタイウィスキ−の水割りを飲み、パムから餞別でもらったバナナ・フリップを食べて一休みする。宿泊所は、かなりの人が収容でき、布団と枕と竹製の床に敷くビニ−ルマットが用意されていた。

sleeping place
 7時、プンが起こしてくれる。 別室でガ−リック入り野菜ス−プ、炒めご飯、野菜と豚の炒めものを食べる。味はトレッカ−用なのかサッパリしている。 

cooking
 我々が食べている間、ポンはコ−ヒ−を飲みながらボクシング雑誌を読み、ここの若手助手を相手に雑談している。食べ終わると、残りの料理に味付けして食べ出す。
 8時過ぎ、遠くで合唱団の声が聞こえてきた。しばらくして場所をかえて歌っていた。この村には他に2組の客が泊まっているようだ。 やがて外に呼ばれると、広場に赤い民族衣装を着た若い女の子が待っていた。我々がベンチに座ると、歌い出す。7人の内、チビは立っているだけ。左はしの背の高い娘も口を適当に開けているだけだった。手拍子をとって元気つける。

singing and dancing
 空は半月、星がまたたいている。一通り歌い終わったところで、お菓子と飴を渡す。今度は一人一人が独唱をはじめた。奥で母親達が歌い振りをチェックしていた。ヘンモク(ありがとう)と言って別れる。 Kさんが別室でマッサ−ジを受けることになった。マッサ−ジするのは、料理を手伝っていた助手の奥さんで未だ16歳。18歳の主人が監視している中でのマッサ−ジ、彼らにとって貴重な現金収入となる。 その間、夜空を鑑賞する。林の方を見ると蛍が点滅していた。蛙と虫の音が聞こえる。

 



monkey near tree.

gun man shows Yahoo(field mouse)

Wat TamplaPhuttapan under cliff



with guide Pon(behind Doi ChiangDao)

waiting for pickup car.

Chiangmai national museum

cross Pin river
11月26日(木) パロン村→チェンマイ→パヤオ

 4時、蛙の合唱で目が覚める。ケチャクのように勢いがある。リ−ダ−がいるのだろうか、1匹が鳴き止むと一斉にやめる。すると虫の音の小さく小刻みな音が聞こえてくる。 聴いていると、人間達も歌わなけりゃならない気がしてくる。
 5時半、別室よりやや降りた所に建つトイレにいく。空は霧がかかっていて2等星位しか見えない。蛙にかわって鶏が鳴きあっている。遠くの家には既に明かりがついていた。 
 6時を過ぎると外も明るくなる。メモをとっている間、Kさんは散歩に出かけていた。
 8時、ポンから別室に誘われ、コ−ヒ−を飲みに行く。ポンが大鍋で目玉焼きを作ってくれる。実をとった後のトウモロコシを燃料にしていた。窓から男の子がずっとのぞいている。
 食後、広場に出ると、子ども達が石投げをしていた。最初に標的になる石を投げ、それに向けてあてていく。他に、棒で使い古しのタイヤを転がして遊んでいる。木陰に猿が繋がれていた。広場の脇に高い台があった。象に乗る台で、かって使われていたようだ。 山から青年が帰ってきた。米軍払い下げの服を着て、長い鉄砲をかつぎ、袋を肩にかけている。袋の中には、ヤ−フ−という野鼠が草の葉で包まれていた。罠に仕掛けて捕ったものだ。
 10時過ぎ、出発。30分程、車の通れる道を歩くと左手の崖にお寺が見えた。タムプラ・プッタパ−ン寺。修行用のお寺のようで、洞穴のような窪地に仏像があり、外の道場に僧侶が作務をしていた。 道を隔てて学校があり、1人の女の子が泣きながら帰っていく。いじめにあったようだ。Kさんが菓子をあげたら、泣き止んだ。
 11時過ぎ、村につく。ここにはキリスト教の教会が建っているが、家々にはオレンジ色の旗をたなびかせ霊を招き寄せていた。この地域は5年前まで森林だったという。猿が木に繋がれていたが、彼らもその頃は、のびのびと生きていたのだろう。
  イギリス人カップルが小屋でガイドと一緒に休んでいた。1週間チェンマイ、9日間プ−ケットの旅をしている。昨日、反対側の山麓からやってきて、同じ村に泊まっていた。 一緒にチェンダオ方向に歩いていく。日差しは強いが、湿気がないので歩きやすい。 やがてピックアップカ−がやってきて皆で乗り込む。助手席には女性が座っていた。途中、メ−・タンで焼き飯を食べる。
 食後、まっすぐチェンマイに行くと思っていたら、左折して走る。運転手の彼女の家迄寄り道していた。 それでも時間は、未だ1時半。5時半のパヤオ行きバス出発迄、時間は充分ある。Kさんと国立博物館に行くことにした。ポンにチップを渡す予定だったが、Kさんの膝をさすったりしてホモっ気があり、就業時間中もクンサ−の本を読みふけっていたので、あげないことにする。博物館は、チェンマイの環状道路沿いにあり、車を玄関に横付けしてくれた。見学は無料で荷物を預けて見る。 3度目にして始めて入ったわりには、見るべきものは殆どない。英語の資料もなくタイ語が読めないのでよくわからないせいもある。 ロッジ迄トゥクトゥクに乗って帰る。 髪がのびていたので理髪店に行ってみる。散髪のみで100バ−ツ。バリカンを使い、髪を梳いて仕上がり。ついでに洗髪してくれた。 Kさんはロッジでシャワ−を浴びてから空港に行き、一足先に帰るので、ここで別れる。 空のソンテオに合図してバス・センタ−迄20バ−ツとキッパリ言って乗り込む。
 バス・センタ−でパヤオ行きの切符を83バ−ツで買い、ソンバット会社の窓口に行ってパヤオからの切符を確認してもらう。係員がパヤオに電話して、27日でなく28日の午後9時半出発の予約を確認、切符にタイ語で裏書きしてもらう。長距離バス会社は他にもインドラ、チャヤシト、アムバサダがあり、それらしきお客が通ると盛んに呼び込んでいた。 もう一度、アン家に電話してみる。英語を話す妹と繋がり、家の近くの学校前で降りて歩くことにする。
 駐車場の先のレストランでカオヤイを食べておく。既に緑色のバスが32番ゲ−トに停まっており、行き先を確認して乗り込む。荷物は網棚に押し込み、すぐ降りられるように運転席の後ろに座る。
 5時半定刻に出発、最初は渋滞でなかなか進まなかったが、118号線に入ってから気持ちよく走る。
 6時半、星と半月の夜空になり、20人程の乗客も休んでいる。途中、検札官が乗ってきたり、トイレタイムでバス・センタ−に停まったりする。パヤオ到着予定8時半なので、8時に時計をセットして休む。目覚ましの音で起き、学校の前で降ろしてもらおうとしたが、発音が悪いのかなかなか通じない。そのうちアジアロ−ドに入り、あっという間に学校の前を過ぎ去ってしまう。 結局、予定より20分早くパヤオのバス・センタ−についてしまった。昼間と違ってお客の乗り降りがない分、運転手もホイホイ飛ばしていた。 アン家に電話すると、迎えにいくという。、迎えにいくという。15分後、母と娘らしき人が何やら人を捜していた。近づいて名乗る。まず、事の次第を言って誤る。
「マイペンライ。これから食事を一緒にしましょう」 ミツビシランサ−に乗る。父が運転して、パヤオ湖に面した「プラワェトワンヤイ」魚料理屋に行く。 父のニックネ−ムはアット。母はエオ。妹はオ−ム、チェンマイ大学4年生で経済学専攻。今回わざわざ私の世話をしにやってきた。ご両親はチェンマイの教育師範学校を卒業、アットはドク・カム・タイ村小学校の教師を27年、今は校長先生。エオは、今でも実家のあるチェンライで料理を教えている。
 食後、家に帰る。家は、アジアハイウェ−に沿ったところにあり、鉄製の門を開けて車を駐車し、又門を閉める。玄関脇の壁に「歓迎Aさん」と英語で書いた紙を貼ってあった。

'welcome Mr.Aki' at Ann's home
 私がバスを降りて捜しやすくしていてくれた。「父はここで待っていました」とオ−ムがいう。早速、お土産として日本のウィスキーと菓子折りを渡す。応接間の壁には、アンの写真が多い。チェンマイ大学卒業式でプミポン国王から直々に証書を渡された時の写真の他、テニスをしている時やモン族の衣装を着た写真などがあり、家全体が歓迎ムードだった。

 無事たどりついたせいかホットして眠くなり、休むことにする。寝場所は2階で、アンが使っていた部屋。シャワ−、トイレも近い。早速、シャワ−を浴びてすっきりする。道路に近いので車の音がすると言われたので、耳栓をしたが疲れていたせいか熟睡。

with Ann's father Att and mother Aeo

visit Att's parents who are both80years old


market

lake of Phayao

Sony sign

at Director's room of Whysaairuan
primary school in Kamthai village

meet teacherNittaya(left)

lecture of 'Thailand and Japan' to her class

after 7girls danced

school ground

take Kaosoi(northern egg noodle)

Wat SikhomKham

Wat Analayo

11月27日(金) パヤオ、カムタイ村・ホァイサ−イルアン小学校、ブッサラ−カム山

 鶏の鳴き声が元気だった。起きた時には、アットは花に水を、エオは料理作りに精を出していた。 庭に出ると、チビ犬2匹がびっくりして吠え出す。1匹は抱きかかえたので、おとなしくなったが、脅えていた。オ−ムがドッグフッドと水をあげると、おとなしく食べだす。 朝食はお粥。小魚、鶏の空揚げ、小海老、茹で玉子を入れて食べる。
 8時に出かける。パヤオの市場に行く。アジアロ−ドから左折してすぐの所にアットの両親が住んでいて、挨拶する。祖父は軍人、祖母は教師だった。2人とも80歳。お祖母さんは、少しボケがはじまっているという。しかし知的な顔をしていた。 湖を周って行く。市場は道に沿って続いていた。アット、エオは道すがら、知り合いに会っては四方山話をしていく。ついでに生卵、胡麻、スルメ等を買っていく。バナナ一房6バ−ツ等、果物は安い。リンゴは中国産でチェンライからだった。バッグの袋に付ける小さい鍵を10バ−ツで買う。
 車に戻ると、窓に紙が挟んであった。5バ−ツの駐車料を払う。市内は交通安全に厳しくなっているようで、帰りは助手席でも座席べルトをしめる。 途中、オ−ムの通った小学校を通る。私立でスク−ルバスを利用していたという。
 9時半、家に戻って着替えてからアットの小学校に行く。彼は、アンから貰った日本製ネクタイをしめている。こちらもワイシャツを着てネクタイをし、靴磨きを借りて、はきふるした靴を磨き、何とか衣服に合わせる。 ホァイサ−イルアン小学校はパヤオから9キロ離れたカムタイ村の奥にある。途中は稲畑が続いていた。その中の一部、28エ−カ−の畑をアットは先祖から譲り受けているという。大地主でもあった。 ソニーの看板が見えた。
 小学校に着くと、まず校長室で記念写真を撮り、ニッタヤ先生を紹介される。先生は北タイ独特のタスキ掛けをした衣装を着た30代後半の女性だった。先生の後に続いて教室に入る。すると生徒達が一斉に立ち「Welcome to A san」と唱和、ワイ(合掌)される。びっくりしながらワイをして応える。
 まず黒板にタイ語で名前を書いて、タイ語の挨拶をしてから英語で話し、オ−ムに通訳してもらいながら「日本とタイ」の講義を始める。 黒板にアジアの地図を書いて、東京、バンコク、チェンマイ、パヤオをマ−ク。飛行機とバスの絵を書いて、東京からここにたどりついたことを、知っている限りのタイ語を交えて話す。 生徒の目が輝き、次に何を話すかとジッと聞いている。他のクラスの生徒達も入ってきた。 お米が雲南地方から日本へと伝わる道とタイへの道を書く。次に仏陀を描いて、インドからスリランカを経てタイに伝わっていく道と、チベットへの道や中国を経て日本に伝わる道を書いて説明していく。
 そしてタイと日本は、同じ膚をして、同じものを食べ、同じ仏様を信じていることを話す。その後、質問を受けることにする。最初ためらっていたが、男の子が手をあげた。
「どんな仕事をしていますか」
「飛行機の中で働いています」
「どうしたらなれますか」
「身体を丈夫にして、何でも興味をもって、英語を勉強しておくとなれます」 
 最後に日本語のレッスン。「ありがとう」を復唱させると、きれいに唱和していた。拍手する。お別れに先生へのプレゼントを渡し、生徒用にお菓子を渡す。ニッタヤ先生は、質問をした生徒にまず菓子をあげていた。
 教室を出ると、カムタイ民俗衣装を着た8人の女の子が待っていた。校舎の前の広場で音楽に合わせて踊る。オ−ムが歌詞の意味を教えてくれる。「ドク・カムタイの女性は美しい。いろんな習慣があって、ここに住む人は皆優しい」 踊り終わってから記念撮影をとる。生徒達も入り、50人位いた。 全校生徒は97人。7クラスあり、各担任の先生と看護担当の先生を紹介される。ネクタイを外して校庭を散歩、アット校長は真っ白の茸をもらって車に積んで出発する。
 パヤオの街に戻り、カオソイ専門店で食事する。カオソイは、ビルマの影響を受けた昼食の料理。チキン、ポ−ク、ミ−トボ−ルの選択があり、チキンとポ−クの2杯を注文。付け合わせに漬物、レモン、玉葱があり、好きなようにカオソイに入れて食べる。ス−プはチリ−ペ−ストとココナッツミルクの味がする。美味い。 他にポ−ク・ソテ−を食べる。ソ−スにピ−ナッツが入っていて、それほど辛くなかった。ビ−ルのツマミによかった。 街頭のラジオ放送が、ニュ−ス番組で日本や台湾のことを話題にしていた。 食後、パヤオ湖畔にあるシ−コム・カム寺に案内される。1491年建立。チェンセン形式の仏陀で高さ17m、幅14mあり、北タイでは最も大きい。上半身は大きいが、組んでいる足が小さかった。 エオから、小さな鈴のついたパヤオの土産をもらう。
 湖の手前に池があり、サワ−イという大きな魚がパンを奪い合っていた。お寺の池にいるお蔭で人間に食べられることもない。 湖の前方にブッサラ−カム(黄色い宝石)山と、更に遠方に標高1967mのノク山がそびえていた。 日差しが強く、盆地特有の暑さになっていた。車はアジアロ−ドを左折、湖を半周してブッサラ−カム山に行く。途中の稲畑は殆ど刈り入れが終り、稲を袋詰めしていた。 日陰になっている駐車場に車を停めて、約300段ある階段を登ってアナラヨ寺に行く。 大きな牡犬が我々を先導していく。登り切ったところで牝犬がいて、秋波を送っていた。そこへ中くらいの牡犬が駆け込み、猛然と立ち向かう。その内、もう1匹が応援に駆けつけ、2匹で噛みつき出す。大犬は尻尾を巻いて、階段をかけおり逃げ去っていった。
 更に階段を登っていくと7匹のナ−ガに護られた白い大仏陀像が見えてきた。ノ−ンカイでも見たキッチュな仏像だ。 奥の仏堂に入って一休みする。ここには、スコ−タイ式の仏陀、両脇に鼻を天に向けて巻いた象2匹が鎮座していた。

Wat Analayo
 ここからパヤオの湖と町が一望できた。

Phayao lake and field from Wat Analayo
 18日の夜は、流星群を見るために、かなりの人がやってきて楽しんだそうだ。マンゴーの木にたくさん実が成っていた。

fruit of mango
 最後は、13cに活躍したガン・ムアン王の記念碑に立つ。

at King Ngam Muang monument
 2時過ぎ、バスセンタ−に行き、ソンバット会社の窓口で再度バンコク行きの予約を確認すると、28日午前9時45分発、座席4Aになっていた。 オ−ムはチェンマイ行きのバスに乗っていくことになり、お礼を兼ねて千バ−ツ紙幣を紙に包んで渡す。母親エオとは、おでこをくっつけるようにして別れる。
 今度は町の印刷屋に行き、アットの報告書3部をピックアップする。再びカムタイ地区に車を走らせ、校医の事務所を訪ねる。ここで作品の幾つかの箇所に署名してもらう。次にパヤオ市教育機関の事務所に行って同じく署名してもらう。分厚い報告書は、校長としての活動報告で、関連機関の資料を元に作成しているようで、該当する部分の内容について間違いないことの証として署名をもらっていた。 アット、労作が出来上がってホットしたせいか一段と快活になり、町にいる友人の店に行って私を紹介していく。
 一段落して夕食の食料を買いにいく。メ−タム市場は広大な広場にあった。肉と魚と果物を主に売っていた。エオは魚とスイカを買って車に戻ってきた。 
 4時、帰宅。早速、シャワ−を浴びてすっきりする。 
 5時、テラスでビ−ルを飲み出す。やがてニッタヤ先生とスチットがやってきた。スチットは教師を辞めてユネスコの仕事をしている。ユネスコ援助資金を小学校建設に使われるよう働きかけている。 エオ手作りのソムタムやヤムウンセンそして肉と野菜炒めを食べていく。後は、皆で炭火で煮た魚をつっつく。バジルとジンジャ−の香りがして身体を暖めていく。
 8時半、街に出てカラオケに行く。 レストランの2階にあり、舞台が出来ていて専属歌手が歌詞を見ながら歌っていた。 我々がテ−ブルにつくと、早速、小堀とアンスマリンの恋歌を歌い出す。日本人への歓迎音楽だ。店には、他に3組のお客が来ていて、歌い飲んでいた。 ニッタヤさんは希望曲を紙に書いて担当者に渡し、曲が流れるとスチットと一緒に舞台に出て歌う。ドク・カムタイの歌だ。何曲か歌われた後、ダンス音楽が流れ、ニッタヤさんに誘われて踊る。スリッパだったので動きにくかったが、気持ち良い汗をかく。
 10時過ぎ、今度はカラオケ・ル−ムへ場所を変える。ここの操作は、ジョッキ−が別の部屋でやる。全てタイ語の歌詞。カラオケは苦手だが、「乾杯」「スキヤキソング」を歌う羽目になる。 ビ−ルはタイ式でいつも並々とそそがれている。 スチットも酒がきいてきたのか饒舌になってきた。
「東京に行きたい、つれてって」
「バンコクは好きなの」
「大嫌い」
「東京はバンコクと同じ。大きくて住みにくい」
「金持ちが多いでしょう」
「いるけども、ホ−ムレスもたくさん」
「そういえば、日本はツナミが来るからコワイ」 一瞬、なんのことかと思ったが、津波だった。その内、酔いがまわって寝てしまう。 
 0時前、家に戻ってグッスリ休む。



from Phayao to Bangkok

in the bus

temple on the hill
 11月28日(土) パヤオ→バンコク

 7時、起きてトイレ、洗面を済ます。外は雨が降っていた。 
 8時、一緒に食事をとる。昨日雨だったら山に行くのは危険だったという。 
 9時前、車に乗って、湖畔に立つポ−クンチョムダム王像に行く。1096年、チェンセンから独立した時の王様だ。安全旅行を祈る。 
 9時20分、バスセンタ−に行き、バスを待つ。エオさんと日本旅行について英語で話す。エオさん、英語を少し思い出してきた。地図を書いた上で幾つかのプランを書いて渡す。来年、桜の花が咲く頃日本に行くことを予定していた。 バスは予定を過ぎても一向に現れない。この調子だと、チェンライに行き、飛行機を使わなければならない。そう思っている内に40分遅れでついた。2人に日本での再会を誓って別れる。
 バスには座席が34あり、乗客は19人いた。アジア・ロ−ドに入って女子客室乗務員が、スナック箱を配る。運転席の後方の画面ではビデオを放映していた。香港からの男性俳優が主役だった。 ンガオに行く途中で検問にかかり、荷物と人物チェックを入念にやりだす。時間は、どんどん経っていく。停車中、乗務員が甘い飲み物を配布していた。 格納庫の荷物の取卸しを担当する男性係員が、近くのお客のリクライニングを調整していたので、こちらも頼む。 バスは山の中に入って登っていく。車線拡張の工事が進んでいた。ロ−カルバスを追い越し出来ないのでスピ−ドも上がらない。 平原に出ると4車線になり、早くなる。ピ−ドも上がらない。 平原に出ると4車線になり、早くなる。
 11時10分、高速道路警察の前で停まる。ビデオはアクションものに変わる。バスはンガオの町をバイパス、ランパンに行くかと思ったらプラ−に向かっていた。土曜日のせいか車が少ない。
 12時前、大きなプラ−タット寺が見え、プラ−を通り過ぎていく。 ビデオは香港映画「少年猪神」に変わる。ダビングのせいで、途中ニュ−スが映ったりしていた。 一休みした後、後部にあるトイレを使ってみる。ジュラルミン製の便器だった。最後部は休眠用ベッドになっている。バスはシリキットダムに通じる道を越えていく。
 1時半、ガソリンスタンドの隣に停まる。トイレタイムだけかと思ったら、レストランでの昼食サ−ビスを受ける。切符を見せると穴を開けて返し、お皿が渡され、ご飯に好みの付け合わせをとる。席につくと水が配られた。ゆったりした時間が過ぎていく。太った尼僧、家族、出稼ぎスタイルの男女が黙々と食べていた。 2時、出発。雨が降り出したが、すぐ止んだ。バスは11号線を走っていく。景色はイサ−ンに似て、まばらな灌木の間に水田が続いていた。
 3時前、ガソリンスタンドに入り、トイレタイム。食後の生理状況をわかっている。今度は右折して12号線を走る。辺りは沼が多くなり、魚を捕ったり鴨を飼っていた。蓮も多い。今回の運転手は、スピ−ドを出すのに興味がなく、ゆっくりとナコンサワンに向かう。 途中、工事中の道を迂回していく。5本目のビデオは、最新作「スネ−クアイズ」。ニコラス・ケ−ジがタイ語で話している。 
 3時40分、国道117号線を走り、ピチット工業団地を通り過ぎる。反対車線も車が多くて、鈍行トラックをなかなか追い越せない。 
 4時50分、ナコンサワンに近づき、左手の丘に大きなチョムキリナクプロ寺が見えてきた。ここも町の中に入ることなくバンコク迄向かう。あと239キロ。しばらくして国道1号線に入る。合流地点のせいか渋滞していた。6本目のビデオは、アジア俳優が出演、アイルランドが舞台だった。
 5時40分、バスが停まる。運転手が反対側の警察所に行ってしまい、10分停まる。、その後はスピ−ドを出して走っていく。
 6時半、アントン通過、結局パヤオからはどこの町にも停まらずにバンコクに向かっていた。どうやら予定通りつくようだ。 
 7時25分、ランジットに着く。終点の北タ−ミナルだと空港へは戻ることになるので、ここで降りる。他の乗客も殆ど降りていく。預けた荷物をピックアップ。丁度メ−タ−タクシ−がやってきたので乗り込む。20分で空港に着く。80バ−ツなので100バ−ツ払って降りる。 日本航空の成田行きは予約がオ−バ−していた。4階の事務所で待つことにする。しばらく振りで日本語の新聞を読んでいたら、タイ人係員がきて
「日本語を手伝って」という。 外には不精髭をはやした大柄の若者が立っていた。
「どういう要件でしょう」と聞いたが、最初話したがらなかった。その内、ぼそぼそ言い出す。「昨日、乗り遅れた。今日帰りたいが、その時に切符を破ってしまった」 この辺から、まともでないと考える。
「切符の番号をメモしていなければ、どうしようもない。現金かクレジットカ−ド持っていれば大丈夫ですよ」「持っていない」 話しにならない。「大使館に行くか、友人がいれば相談しなさい」 どうやら、只乗りしようとしていたようで無言で帰っていく。 こちらの方も乗れそうもない。結局、TG622便で関西に行くことになった。 出発迄、TGのロイヤルラウンジで待つ。
 なりゆき任せだったが、翌朝、無事、帰国出来た。

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